星の学校 閃きと煌きの日常

僕たちがもともと知っているけれど、すこし思い出すのがむずかしいこと。それは、うれしい毎日、ゆたかな日常。
僕たちはここで遊び、すべてのことから学んでいる。この星が学校なんだ。

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2016.06.11 Saturday

「note」への記事移行のお知らせ

星の学校をご覧いただきありがとうございます。
こちらのブログで執筆していた記事を「note」に移行することにしました。
今後の記事は、以下のリンク先より、ご覧下さい。
https://note.mu/meguridesign

2016.02.13 Saturday

おわらない日々の、始まりと終わり

「時間がある」とき
「時間がない」とき
時間に支配されているといってもいいほど
時間を基準に生活する私たちの生活。

時間を忘れて何かに没頭したとき
時間を忘れてのんびりと過ごしたとき
わたしたちは確かに癒されているように感じます。

しかし一方で、時間を区切らないと
目標や計画をたてることが難しく
価値があり、愛しいものがあります。

「時間」とは
どこに存在するのでしょうか。

これが時間です、といって時計を差したとき
それは時計でありますが、時間そのものなのでしょうか。
時計の針が10分間分を進めたことを差したとき
それは針が進んだ角度ではありますが、時間そのものなのでしょうか。

時間を、認識できる形にすることはとても難しい。
「時間」は概念だからです。

僕たちが「時間」を知るために使う時計は
星の動きを、観察し計測したものです。
「時計」は時を計ると書きますが、
計っているのは星の動きです。

つまり、星の周期的な運動を秩序として
1日,1月,1年の星の変化を基準にして

私たちが「時間」というものをつくったのです。

私たちの人生には限りがあります
残された時間、という表現がありますが
消費されているのは時間ではなく肉体です。
あとどれだけ生きられるかという
からだ細胞の生まれわかる回数を
変化を生み出すことができる年数を

「時間」に読み替えているんです。

日々をよりよく送るために
便利なものにするために
時間は有用な概念です。

しかし、その
おわらない日常を
くりかえされる毎日を
終わらせる概念でもあります。

人が、人生の中で
何をするべきなのかを知るために
始まりと、終わりが
時間によって生み出された。


それが時間の
本当の姿なのかもしれませんね。

2016.02.03 Wednesday

「おまけ」あふれる、幸せな毎日

世の中はおまけで溢れてる。
ファッションや食べ物や住環境、
その人のライフスタイルの中で
必要十分条件を満たしたうえで、
それ以上の価値の部分。


それは「付加価値」であり、
「おまけ」がついているということ。

そのおまけの大きさによって、
お金を払う人・払わない人と別れるけど
対価を払って、より良いものを求めることは
人生を豊かにできる。

何を価値に感じてもいいし、
どれだけ手に入れても構わない。
一方で「満足できない人」が多い。

テレビや雑誌でとりあげられると、
みんなそれを欲しがって買いに走るけれど、
欲しいということは、足りないと思っている。

生活に必要十分な物事は満たされても
なぜか満足できない。
現代で、昔にくらべ健康でない人がいるとしたら
それは、「満足できない」ストレスじゃないか。

衣食住がみたされることから
人間の発展はスタートしているのに、
なぜ豊かさに溢れる私たちが
衣食住の安心や安全を気にしているのだろう。

普通に毎日がやってきて、
衣食住はみたされている日本という国、
少なくとも家族や近しい人たちは
健康で安全な毎日を送れているように思う。

物の数や質やお金の豊かさで溢れてなくとも、
その普通の毎日には笑顔があり、
幸せではないだろうか。

それで「十分」なのだから
僕らの目に見えるものは、
ほとんど「おまけ」なんだ。

満たされていない、というよりも
満たされたうえで、おまけがある。

そんな毎日。



2016.02.02 Tuesday

落ち葉に善悪はない

人には個性がある。
個性は身体や考え方のクセのこと。
小さい時からみについて、
日々進化するクセ。

考え方の場合
それを先入観といったり
固定観念といったりする。

先入観や固定観念は
誰にでもある
誰かをまねたり
何かをまねたり
あこがれたり
するなかで身につく。

それは、そのひと
それぞれの「フォーマット」になる。
物事を判断するときの基準だ。

基準があるから、
物事を決めて、進むことができる。
自分がや環境を変化させることができる。

しかし、決めることと
良い悪い、は別のこと。

ひとは、自分の基準に沿って
物事を決めていい。
自分のわがままで決めていい。

しかし、
それは善悪の決定じゃない。

自分がどうするかの決定なんだ。
何かを決めるとき、
何かを手に取る。

手に取らなかったものは
「悪いもの」でも
「良くないもの」でもない。

自分の基準で
物事をきめることは
ただただ自然なことで。

風に吹かれて葉がおちるのと変わらない。

風でおちた葉に
いいのか悪いのかは問えない。

世の中の流れは
ひとが決めていると思うのは
ぼくたちが人の内側で物事を考えてるから。
地球のうえで人間のやっていることなんて
自然のなかの小さな出来事。

風に吹かれて葉がおちるのと
なにもかわらない。



2016.01.28 Thursday

足りている、ということ。大切なこと。世界の真理の寓話。

大切なことは
人のどのあたりにあるのか。
社会のどのあたりにあるのか。
宇宙のどのあたりにあるのか。

そもそも僕たちは何を探しているのか。
自分探し、自己啓発、
なりたい自分を探して、どこへ向かうのだろうか。



僕たちは、いつでも足りています。



「足りている」と感じたときに、体は自然と進みだし
自分に必要なものを引き寄せます。

「ひきよせ」というものは
引き寄せたり、引き寄せられたり、ではなく
「いつのまにかそうなっている」ことなんです。

誰かが食べているから食べたいのではなく、
体が必要としているものを手に取り、食べていることです。

誰かが所有しているから所有したいのではなく、
自分に必要なものを、自然と手にいれていることです。

誰かが輝いてみえるから輝きたいのではなく、
自分が輝ける場所に、しらずしらず立っていることです。

ただ、何かをしたい。何かがほしい。誰かのようになりたい。
そう思うこと自体はあたりまえのことです。
僕もよく、そのようにいろんなことを願います。

しかし、何かがしたい、と思うと同時に
できていない自分を肯定してしまいます。
何かになりたい、と思うと同時に
なれていない自分を肯定してしまいます。

したい、ほしい、なりたい。そう思えば思うほど、
目の前の世界が気にいらず、不満を抱いてしまいます。
ますます叶わない環境を自分でひきよせているんです。


足りている、と。考えてください。

これまでもずっと、足りていたんです。


その気持ちで世界を眺めてください。

この世界が、地球が、偶然にできたとするのならば、
いったいどのような奇跡が連なれば、
この完成された世界が生まれるのかを、考えてみてください。

その世界の循環を感じてください。

そのときに、はじめて、
自分の身体が、心が、ひとりでに向く方向があります。

それは僕たち人間が、
この世界の、地球の、宇宙の循環の一部だからこそ、
その流れに身を任せた時に向いていく方向があるんです。

それがひとつの「自然」な状態です。
そして、自分が自然なときに「自分らしい」のです。

人は、これが自分だ、と認識できる体があり自我があり、
それだけで他の誰とも違うのに、「自分らしさ」を探します。

自分はここに立っているだけで自分らしくあるはずなのに、
なぜかそれを、どこか別の場所に探しています。

それは、かけているメガネを
どこかに忘れたと思い込み探しているようです。

「自分らしさ」
それは、自分をよくしること。

ただそれだけです。

自分の目から見ている外側を探すのではなく
外側を見ている自分がいることを知ることです。

自分をうけとめることです。
身体も容姿もこころも能力も経験も
理想の自分と、現実の自分を混同しないことです。

成功と思うことも失敗と思うことも
ただそんな出来事があっただけです。
自分について評価せず
他人について評価せず
ただそれを見つめるだけです。

足りているからそれでいいんです。

足りている今この瞬間を実感し
納得することが、自分らしさそのものです。

より詳しく、より深く実感できれば
自分らしさは、はっきりと見えてきます。

それは原石を磨くようです。
見れば見るほど、均一ではなく、さまざまなクセがあり、
凹凸がある自分を知ることになります。

それを、ただ、じっと。
じっと見る。

物事に、自分自身に、森羅万象に
よい、わるいなど、そんなものはないんです。

ただ、そこに無数に事実があるだけです。
それを、じっとみることが自分らしさの発見。
自分さがしであり、自己啓発なんです。

自己啓発は自信を得ることではなく
ありのまま「わたし」を、これ以上ないところまで
徹底的に知ることです。

それが「足りている」という実感になります。

私たちの生きているこの世界は、
偶然にしてはあまりにも上手く出来すぎています。

無限に近い数の歯車で組み立てられた
宇宙という機械の中に地球があり、世界があり
僕たちの生活があるようなものです。

でもそこにエラーがおきないのです。
機械なら、一番ちいさな歯車によってすべてが停止します。
プログラムなら、コードの1文字によってすべてが停止します。

なのにこの世界はエラーがおきない。
だから美しいんです。
歯車のひとつひとつまでが完全な役割をもっているんです。

僕たちは日々の出来事を理不尽に感じ憤っています。
しかし、その出来事自体、奇跡的な出来事なんです。

理不尽ですら、愛でることができるほど
この世界の仕組みは美しい。

私たちはみんな美しい歯車であると同時に
小さな歯車をつくりだすクリエイターです。

言葉を発し、文字を書き、手足を使い、世界を変化させています。
どのように小さな影響でも、この世界を動かす歯車の創造です。

あなたは「世界」というノートに、文字や図を書き加えています。

自分が安らかであれば、安らかに筆を振るい
安らかな言葉を書き、それを見て安らかだと言います。

自分が苛々としていれば、落ち着かず苛々と筆を振るい
落ち着かない言葉を書き、それを見て苛々すると言います。

この世界でおきることは、
すべてあなた自身が書いたノートの通りです。
あなたのきもちや言葉が、世界の仕組みを決めるんです。

あなたのノートですから、いつでも訂正できます。
しかし、世界の仕組みを、誰かのせいにはできません。
それは誰かのノートの一部になる、ということです。

あなたは、あなたという美しい歯車であると同時に
あなた以外の誰かになることは、できないのです。


僕は、この世界のみんながクリエイターであり
この世界を構築していると考えています。

同時にこの世界はゲームの舞台であり
みんなが、そのプレイヤーであると考えています。

創り出すことと同時に遊んでいるのです。
創ることを遊び、創った世界で遊ぶ。


それは、本当に、とても愛しいことです。


この世界の美しさを、日々を愛しく思います。
この世界の完全さを、感情のない機械のように思います。

すべてがぴったりと足りています。

それが、ただ淡々と連続しているだけなんです。


それが、世界の仕組みです。
世界の真理であり、世界のヒミツです。


そして
いつもの日常に戻っていくんです。
いつもの日々を過ごしていくんです。




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僕が感じている世界の見え方。
それは寓話のようなものかもしれません。
「こんこんキツネ塾」にも同内容を投稿しました。


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